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『破獄』

破獄 (新潮文庫)破獄 (新潮文庫)
(1986/12)
吉村 昭

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 犯罪史上未曾有の四度の脱獄を実行した無期刑囚佐久間清太郎。その緻密な計画と大胆な行動力、超人的ともいえる手口を、戦中・戦後の混乱した時代背景に重ねて入念に追跡し、獄房で厳重な監視を受ける彼と、彼を閉じ込めた男たちの息詰る闘いを描破した力編。(カバーより)


 この物語は、実際にあった事件をもとに小説化したもののようです。
 いかに、戦中・戦後の混乱期とはいえ、四度も脱獄を実行する人というのは、物凄いです。

 小説の描写から見るかぎりでは、当時の刑務所も、当然「ザル」であるはずがなく、(現代ほど機械に頼れないからこその)厳重な監視体制が敷かれていたようですが、その目をかいくぐって脱獄するのです。それが重なってくると、単に「逃げ出す」というよりも「捕まえた者をあざ笑う」という印象を受けてしまいます。

 そんな彼が四度の脱獄を経て、どんな人生を送っていくのかということが小説で描かれているんですが、そのころの時代背景を併せて、色々と考えさせるものがありますね。(ちなみに、この脱獄事件をテーマとした、別の「ノンフィクション形式の本」も出ているようです。)

 今や、これほどの脱獄事件が起こることは、きっとないと思われますので、そういう意味でも、スゴイ物語です。
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2010.01.06 (Wed) 22:12  |  読書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

『教育再生の条件』

教育再生の条件―経済学的考察 (シリーズ・現代経済の課題)教育再生の条件―経済学的考察 (シリーズ・現代経済の課題)
(2007/10)
神野 直彦

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 危機に立つ日本の教育。それは、学校の危機、学校教育の危機にとどまるものではなく、日本の社会が、社会として社会の構成員を育成することに失敗しているという大きな危機の一部にすぎない。この認識を欠くがゆえに、一九八〇年代以来声高に「教育改革」が叫ばれながら、いずれのプランもうまくいかず、事態はますます深刻化してきたのだ。(カバーより)


 生まれたときからずっと学校にいるわけではなく、24時間学校にいるわけではないにもかかわらず、「教育=学校」というイメージが浸透しているように思えます。

 大人たちは、自分が子どもだった頃、学校・家族・地域・友人・テレビ……といったもののうち、「自分の成長のなかで“学校が果たした役割”がどの程度の割合だったのか」ということを、もはや忘れてしまっているような気がします。

 「教育に関する学校の責任」というのは、確かに大きいと思いますが、「学校が教育の全て」というわけではないでしょう。そういう意味では、学校を取り巻く社会環境が抱える課題を横において、教育現場のみ変革しようとしても、根本的な解決にはなりにくいような気がします。

 新自由主義の「競争社会」の目指す教育改革は、アンビバレントな課題を担うことになる。一つは、教育を競争社会に合致するように改革することである。もう一つは、競争社会が生み出す社会的病理を教育で発生させないように改革することである。つまり、競争社会が生み出す犯罪、自殺、麻薬、暴力などの社会的病理を、教育が生み出した社会的病理だと見做すことによって、教育に社会的病理を防止させようとする改革である。
 しかし、こうした教育改革こそ、自分の矛で自分の盾を突く矛盾である。競争原理を教育に導入して、競争原理の生み出す社会的病理を解消できるはずがないからである。(p16)


 確かに、言われてみれば、学校には「みんな仲良く」と「よりいい点数を」という、言わば背反する価値観が同居しているように見えますね。また、その「背反する価値観」を周りの大人が学校に求めているような気がします。

 皮肉な視点ですが、実は子どもたちは、このような、大人社会が抱える「アンビバレント」性――世の中には「同じ人が場面によって“逆の言葉”を言うことがある」ことなど――にどう対応するのかということを、学校生活の中で最も学んでいるのかもしれません。これに、うまく適応できず、それぞれの言葉に真正直に振り回されすぎると、混乱か反発か逃走かということになるでしょうから。

 アダム・スミスは政府が教育を提供する必要性を、生産活動における労働能力に求めていたのではない。むしろ生産活動が分業化され、労働が単純化することによって生ずる社会的亀裂を解消し、社会統合を実現していくことに、政府が教育を提供する必要性を認めたのである。(p51)


 不勉強ながら、アダム・スミスが教育に関する論及を行っていたことは知りませんでした。
 経済的(財政的)効率性のことだけ考えると、単に知識を教えるということであれば、(公立)学校を全廃して、塾(私立学校とか)に委ねたほうがいいということになるでしょう。そして、学校に経済的な理由で通えない人には公的助成をするほうが、財政的には少なくて済むはずですから。(ちなみに、経済的に厳しい方に教育費を援助する制度は、今の日本にもあります。)

 にもかかわらず、公立学校が存在している理由としては、ナショナルカリキュラムの浸透ということのほかに、人口密度が低い地域など、私立学校では採算が合わない地域のことなどを考えると、全てを民間の競争だけに任せたら教育に不公平が生じ、社会的亀裂が生じる恐れがあるということじゃないかなと思います。

 そういうことから考えると、教育の不公平が招く社会不安を防止し「みんなが安心して暮らせる社会」を築くために、どこでも一定のレベルでの教育を受けることができるシステムを目指しているのでしょう。

 スウェーデンに学べば、知識社会の高等教育は、「誰でも、いつでも、やり直しが利く」ように、デザインされていなければならない。もちろん、「ただで」が原則である。
(中略)
 スウェーデンでは、高等教育が職業資格と密接に結びついていることが重要である。
 医学部に進学して必要な単位を取得すれば、医師になれる。法学部に進学して必要な単位を取得すれば、弁護士になれる。薬学部に進学して必要な単位を取得すれば、薬剤師になれるというようにである。(p164)


 本書では、スウェーデンの教育制度がモデルケースとして例示されていますが、それを日本と比較する場合は、財政面、特にスウェーデンの税負担も考慮すべきだと思います。つまり、スウェーデンと日本では税の負担割合が同じなのかということです。
 私は、スウェーデンの税負担がどの程度かはよく知らないんですが、話を単純化して整理すると、高負担高福祉か低負担低福祉かという話になるのかもしれません。あと、スウェーデンの平均的な生活水準も気になります。

 気をつけなければいけないのは、ともすれば「低負担高福祉」を望みがちなのが我々だということだと思います。その矛盾に目を向けない政治運営を行うならば、その後にあるのは莫大な借金とそれに伴う経済の不安定化のような気がします。

 教育改革を考える場合、現場の体制をどう考えていくのかという比較的ミクロな視点と併せて、社会をどうデザインし、それに対する負担をどう求めていくのかというマクロ的な視点も必要になるんじゃないかなと思います。これが、政治家の皆様に期待するところだと思いますので、「低負担高福祉の幻想」や「学校問題への矮小化」に陥ることのない議論を期待したいものです。

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2009.12.27 (Sun) 22:28  |  読書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

『僕は運動おんち』

僕は運動おんち (集英社文庫)僕は運動おんち (集英社文庫)
(2009/06/26)
枡野浩一

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 運動も勉強もできず、落ち込みがちな高校生の勝(しょう)。運動音痴から「うんちゃん」とあだ名され、同じ高校に美しい妹が入学してからは変に目立って、ますます死にたい毎日。そんな中、詩を書く柔道部の男子と親しくなり、髪の長い女子柔道部エースに恋してしまう。なぜか運動部にも入部するハメになり、学校生活は予想外の方向へ――。(カバーより)


 勉強はともかく、運動(スポーツ)に関しては全く自信がない私としては、その哀しさはよく分かります。

 特に団体競技とかは、チームの足を引っ張ってしまうので、ドコからも敬遠されて、寂しい想いをしていたのをよく覚えています。(陸上とかの個人競技でビリになるのは、別にどうでもいいのですが)「私は勉強が苦手な人を非難したことはないのに、なぜ運動が出来ない私をみんな非難するんだろう」なんていうことを思ってました。
 
 この本では、運動音痴と見られている高校生が成長していく物語が描かれているんですが、私も経験したような「哀しさ」の中、少し前向きになれるような話が進んでいきます。

 私自身の高校時代には、この小説のような素敵な経験はなかったし、何か悩んでばかりだったような気がしますが、振り返ると、それでも学校生活の中で得たものもあったのかもしれないな…という気になりました。

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2009.12.19 (Sat) 23:57  |  読書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

『雷電本紀』

雷電本紀 (小学館文庫)雷電本紀 (小学館文庫)
(2005/06/07)
飯嶋 和一

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 凶作、飢餓、貧困に悪政が追い打ちをかけた天明、寛政年間、後世まで語り継がれる一人の力士が彗星のように現れた。巨人のような体軀、野獣のような闘志で、生涯にわずか十敗。豪快に相手をなぎ倒すこの男の相撲に、抑圧され続けてきた民衆は快哉を叫び、生きることへの希望を見いだしていった。(カバーより)


 飯嶋さんの『黄金旅風』が面白かったので、『雷電本紀』の方も買ってしまいました。
 この本は「雷電為右衛門」を主人公とした歴史小説となっています。その力士の名前は聞いた事があったので、興味が沸いたというのもあります。

 小諸八幡の祭礼相撲は、古式どおり二役で、かつての最手(ほて)を大関、脇(わき)を関脇と今風に改めただけで、三都の大相撲のようには小結という役がなかった。化粧廻(まわ)しをつけることができるのはこの二役だけだった。(pp82-83)


 ホテとかワキとかいう言葉を聴くと、なんとなく「古語の雰囲気」を感じます。(能のシテとかワキとかいう言葉と関係があるのかは知りませんが…)
 相撲が「興行」として成立したのはいつごろなんでしょうか。小説の中とはいえ、こんな言葉に触れると、相撲の長い歴史に想いを馳せてしまいます。この本を通じて“あのころの相撲”を想像するのも、面白いです。

 谷風が出て初めて、相撲人も博奕打ちや侠客の属類ではなく、一個の生業としての体裁を備えることに至ったことは間違いなかった。仙台藩領霞ノ目村の百姓家の生まれ。いわば田畑を離れた百姓の倅(せがれ)が、江戸に出て一家を成すという、それまでは考えられなかった立身の形を具現して見せたのが谷風梶之助その人だった。(p294)
 谷風が心を痛めていたのは、実は相撲人自身が、大名に召し抱えられ帯刀を許されている身分を失うことを恐れ、星の貸し借りや情実を土俵の上に持ち込み、あげくは金銭による星の売買まで横行していることだった。(p181)


 あの時代、「田畑を離れた百姓」は「収入を得るすべを失う」ことになるでしょうから、そのような人が(相撲人としての)社会的な成功をするというのは、当時としては確かに異例のことじゃなかったのかなと思います。
 逆に言えば、「相撲」が公けの興行として認められない事態になれば、食を得る手段がなくなるということになるでしょうから、武家とのつきあいをうまくやりながら、その「枠組み」の維持を図る必要があったのかもしれません。
 でも、それによって「本気の勝負」が土俵から消えたのでは「本末転倒」でしょうから、この小説の登場人物が危機感を抱いたのもよく分かります。

 たとえ花を得るための課役(かやく)相撲、稽古相撲の類ではあっても、三都の大相撲であってもその大きさが変るものではありません。手心を加え、猿芝居もどきを演ずるために、土俵へ上がることは、相手方に対しても無礼。何の恨みも相手方に抱いてはおりませんが、相撲(すも)うた結果、どのような事態に至りましても、双方その覚悟にてまみえ、相搏(あいう)つのが本願。(p191:雷電の台詞より)


 それまでの「怪我を避けた相撲」に対して「本気・全力での相撲」を仕掛けてくる雷電の姿は、「既存の価値観への正面からのぶつかり勝負」のようにも感じられます。また、熱狂的な支援をする民衆の背景には、こんな姿への「共感」があるのかもしれません。

 その「相撲」は、「スポーツ」という言葉ではなく「格闘技」(=闘うための技)という言葉がふさわしいように思えます。そんなことを感じつつ、雷電とその周りにいる人々の「闘い」の物語に引き込まれながら、読了することができました。

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2009.12.09 (Wed) 23:02  |  読書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑

『読んで楽しむのだめカンタービレの音楽会』

読んで楽しむのだめカンタービレの音楽会読んで楽しむのだめカンタービレの音楽会
(2009/11)
茂木 大輔

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 茂木さんが主催して、「のだめカンタービレ」の音楽を生で再現してくれているのが、「茂木大輔の生で聴く“のだめカンタービレ”の音楽会」です。「のだめ」を読んで、クラシックに興味をもった人から、「マンガでやっていたこの曲の生演奏が聴きたい!」という声をたくさんいただいていたので、茂木さんの活動は、いままでクラシックに縁のなかった人がクラシックの世界に入り込む大きなきっかけになりました。(p2:推薦文[二ノ宮知子氏]より)


 茂木さんのお名前は、『オーケストラ楽器別人間学』で初めて拝見させていただいたのを覚えています。この方の文章は、ユーモアが効いていて非常に読みやすく、著書を結構愛読しています。

 「のだめカンタービレの音楽会」は、今年春に聴きに行くことができ、とても楽しかったことを覚えています。(CDにサインも頂きました。)
 スライドを使って、マンガの世界とオーケストラの生演奏をシンクロさせながら、また、時には、曲の成り立ちや構造など“解説”も織り交ぜながら、「わかりやすくて楽しい音楽会」でした。

 この本では、そんな音楽会の舞台裏が描かれているんですが、茂木さんと「のだめ」との縁や音楽会企画担当者との縁など「人と人との様々な縁」のなかで、色んなアイデア・工夫・苦労が重なり合って、あのような音楽会が出来上がる――ひとつのステージを作り上げるというのは、やはり大変だけどやりがいのある仕事なんだろうなぁと感じました。

 クラシックには長い曲が多いし、聴きたい曲聴かせたい曲も多いので、すべてを全曲演奏することは無理であっても、交響曲などはなるべく全部を聞いてもらいたい、と考えていた。シンフォニーにはたいてい4つの楽章があり、作曲家はそれ全体を計算して大きな変化と組み立て、コントラスト、長大に計算された興奮と感動のストーリーが作られている。「いいとこどり」に一部分を演奏して、はいつぎ、となるのも気楽で楽しいが、やはり、コンサートの中心になる曲は全貌を聞いてほしい、と思っていた。(p149)


 この音楽会では、マンガで出てきた作品(曲)を(抜粋ではなく)「通し」で聴かせるというのも特徴的です。ドラマとかで流れる部分は、長い交響曲の一部分なので、それを全部通しで聞いてみるというのも面白いと思います。
 私自身も、音楽会で長い交響曲(特に知らない曲)を聞くときには、実は、手元にパンフレットの「解説のページ」を広げて、それを読みながら聞くことが多い(もちろん、ページをめくる音がしないように気をつけています)のですが、スライドになると、その効果は倍増ですね。作るほうは大変だと思いますが、観客としては、とてもイイです。

 日本全国、「のだめ」のなかの曲を色々とピックアップしながら、様々な音楽会を開いてあるみたいですので、また、近くのホールで企画いただければいいな…と思います。

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2009.12.06 (Sun) 21:28  |  読書  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
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